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      <title>知誠館 : スタッフブログ</title>
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      <description></description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2012</copyright>
      <lastBuildDate>Fri, 03 Feb 2012 12:07:46 +0900</lastBuildDate>
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         <title>雪</title>
         <description><![CDATA[昨夜から今朝にかけて、この冬一番の寒さとなりました。
子どもたちが教室のベランダに出て、小さな雪だるまを作りました。
<img alt="IMG_0266.jpg" src="http://tiseikan.com/blog/images/IMG_0266.jpg" width="320" height="239" />
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長 北村真也</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 03 Feb 2012 12:07:46 +0900</pubDate>
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         <title>子どもの目線</title>
         <description>子どもの目線から何が見えているのかということを、いつも私は考えています。
目線だけではありません。子どもの肌に感じる世界をいつも感じていたいと思うのです。

子どもだけではありません。
私に見えること、私に感じられることを、その子の両親はどうとらえているのだろうか？あるいは、同級生たちはどうだろう？学校の先生は？と…、私はそれぞれの目線をいつも考えるようにしています。
そうすると、その子を取り巻く世界が立体的に浮かび上がってくるのです。

自分以外の人たちの目線を備えること、これは「他者性の獲得」と言われます。
「他者性」とは「教養」と言い換えることができるかもしれません。
そういう意味では、私たちがいろんなことを学ぶことの目的は、教養、つまり他者性を獲得し、自分以外の人たちの側から様々な物事を見つめられるようになることかもしれません。</description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/02/post_554.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長 北村真也</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 02 Feb 2012 21:34:11 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>生活世界に触れる</title>
         <description>Ａ子の住んでいる町を初めて訪れました。

かつてＡ子が通っていた学校。
友達と買い物に行っていたスーパー。
町の小さな雑貨屋。
嫌なことがあると、家を飛び出しいつも行くといっていたコンビニ。
Ａ子の話によく登場していた風景の中を私は歩いていました。

Ａ子はどんな思いで学校へ行き、どんな思いでこのコンビニに立ち寄ったんだろう。
私は、ふとそんなことを考えていました。Ａ子の生活世界にほんの少しだけ足を踏み入れた時、そこに彼女の思いが重なっていくような気がしたのです。

その場に行かないとわからないこと、気がつかないことって、たくさんあるように思うのです。頭だけで考えるのではなく、この身体全体で感じるリアリティを大事にしたいと思うのです。
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         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/02/post_553.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長 北村真也</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 02 Feb 2012 10:37:19 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>中学訪問、そして教育長と面談</title>
         <description>昨日は忙しい日でした。

朝から京丹波町へと出向き、瑞穂中学校に出かけました。
そこで、校長先生、担任の先生、学年主任の先生、そして養護の先生とアウラの生徒の進路についての話をしました。

アウラでは、普段から学校と密接な連携を行っているのですが、こうしてその節目節目で互いの教師が行き来して顔を突き合わせて話をします。子どもを核においた話し合いが持たれました。

その後、車を旧和知町へと走らせ、京丹波町庁舎へ出向き、そこで朝子教育長と久しぶりに対面することができました。朝子教育長とは、もうかれこれ6、7年のお付き合いで積もる話題に事欠くことはありませんでした。あっという間の面談時間でした。

そしていったんアウラに戻り、受験生の指導を担い、夕方から大学の公開研究会に出席し、その後主催者のみなさんと会食をして再びアウラへと戻りました。</description>
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         <pubDate>Tue, 31 Jan 2012 12:22:08 +0900</pubDate>
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         <title>学ぶことは、変わること</title>
         <description><![CDATA[<img alt="P1040087.jpg" src="http://tiseikan.com/blog/images/P1040087.jpg" width="320" height="240" />

不登校の子どもたちの中には、結構過酷な人生を背負っている者が少なくありません。
友達関係の縺れ、両親の問題、祖父母と両親との問題、家族の障がいの問題、自分自身の身体あるいは心の問題…。

昨日も書きましたが、たった10年余りの人生の中に彼らは、いくつもの傷を背負ってきたのかもしれません。

それはたとえ状況がどうであろうが、彼らの主観にとってはすべてが事実であり、すべてが取り戻すことのできない過去なのです。そしてその過去が、何度も機会あるごとに彼らの記憶の中からよみがえってくるのです。これをフラッシュバックといいます。

だから私たちは、一旦それらをしっかり受け止めないといけないと思っています。彼らの苦しみをどこかで共有しなければ、そこに相互転移が生じないからです。教育というのは、相互転移を基盤として成り立つ関係だと思っています。

でも私は、あえて彼らの課題を指摘します。彼らがどんな状況にあろうが、自らが変わっていかないと問題は解決しないと信じているからです。他人のせいにしている間は、問題が先送りされているだけで何も変わらないからです。

「学んでいることの唯一の証は、自分自身が変わること」だと私は信じています。
Ｊ.メジローという教育学者は、教育の究極の目標は自分自身の視野そのものが変わることだと述べていますが、私もそう思います。自分の視野が変わると、世界が変わるからです。

今日ある女の子が、自分自身の過去について語ってくれました。
最初は私が聞き、そのあとで高校生の女の子も一緒に聞いてくれました。
すべてはそこから始まるのです。]]></description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/01/post_551.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長 北村真也</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 27 Jan 2012 09:54:36 +0900</pubDate>
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         <title>ひたむきさ</title>
         <description><![CDATA[<img alt="P1040086.jpg" src="http://tiseikan.com/blog/images/P1040086.jpg" width="320" height="240" />

「うちの人生は、雑巾みたいにボロボロや」
そう私に話す17歳の少女がいます。
たった17年しか生きていないのに、自分の人生がボロボロだという彼女のコトバに心が痛みます。

どんなにつらいことがあろうが、どんなに悲しい経験があろうが、それを超えて私の目の前にその子がいます。
ひたむきに生きようとする彼女の今に、私は人としての「美しさ」を見ているように思うのです。

]]></description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/01/post_550.html</link>
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         <pubDate>Thu, 26 Jan 2012 10:03:21 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>大事な情報が、浮かび上がるように見えてくる</title>
         <description>「学校のカウンセラーは、なんかシュレッダーみたいに、ただ機械的に処理するだけ…」
そんなことを、いう生徒がいました。
「でも塾長は違う、なんか親近感があるというか…、聞いてもらえてる感じがする」
これって、どういうことなのか少し考えてみることにしました。

私から見ると、カウンセリングの場面は常に点でつながっているように思います。限られた時空の中と限られた関係性の中にカウンセリング場面は成立します。それは、契約に基づく場面なのです。だからこそ、そこは点と点の世界、あるいは非連続な世界にとどまるように思うのです。

それに対してアウラでの子どもたちとの関係、それはリアルな生活の場面でもあり、継ぎ目のない連続の世界です。だからこそ、そこには常に時間軸に基づき関係性が変化するわけです。場面が次から次へと展開していく。しかも、当事者である子どもも、そして教師も絶えず変化していく。これは、専門的には「転移」「逆転移」と呼ばれるわけですが、絶えず影響の渦の中にあるわけです。また、二人の関係の変化によってアウラの場そのものも変化するのです。

そうなると、そこに変化の文脈が浮かび上がってきます。どんな風に変化していくのか、あるいは今までの変化の軌跡を観察することで、ある文脈性が浮かび上がってくるのです。そして私たちは、その文脈の変化を見つめるのです。

そこは切れ目のないアナログの世界であり、教師と生徒という明確な境界のない世界であり、常に更新され続ける変化の世界なのです。</description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/01/post_549.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長 北村真也</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 25 Jan 2012 15:52:48 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>塾長の役割</title>
         <description><![CDATA[<img alt="P1040155.jpg" src="http://tiseikan.com/blog/images/P1040155.jpg" width="320" height="240" />

「塾長は、私らのお父さんみたい」
「みんなを見守ってくれてる感じや」
「ボーっとしてるようで、めっちゃ深く見てくれる」
「ほんで、面談室で語りだす」
アウラの子どもたちが、昼休みにそんな私の噂話をしているのが聞こえてきました。

アウラでの私の最大の役割は、彼らを見守っていくことではないかとこの頃よく思います。特に何をするでもなく、ただ彼らをじっと見つめて時々何かを語りだす。そんな大人が一人くらいいてもいい気がするんです。

子どもたちを見ていると、いろんなことが見えてきます。それは子どもだのことではなく、その家族の関係、家族の価値、家族の雰囲気。子どもはいろんな人間関係の中で生きているんだなとつくづく思い知らされます。

そしてそれらをていねいに紐解いていくと、私はその子の本質にどこか触れていくような気がするんです。それはその子自身も知らない自分であったりします。学ぶということは、ある意味でまだ知らぬ自分自身の存在に気づいていくことなのかもしれません。

子どもたちのコトバに、私はふと自分自身のアウラでの役割に気づかされることがあるのです。




]]></description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/01/post_548.html</link>
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         <pubDate>Tue, 24 Jan 2012 23:20:32 +0900</pubDate>
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         <title>コトバにするということ</title>
         <description>自分が何が苦しいのかわからない。
でも、しんどい、しんどくてたまらない。

すごく肩が凝ってしかたない。
それが限界にくると、今度は頭が痛くなる。
でも、どうしてそうなるのかわからない。

そんなことを私に話してくれた不登校の子どもたちがいました。

どうして何かわからないけど、とにかく苦しい。
その得体のしれない苦しさにじっと耐えてきたのですが、それが限界を超えた時、突然学校へ行けなくなったのです。

その子は、自分が感じてきたものを「苦しい」とか「しんどい」とかいうコトバでしかなかなか表現ができません。もっとていねいに、自分が感じてきたものをコトバにできたなら、その子はもう少し楽に過ごせてきたかもしれないと私は感じていました。

自分のコトバで語ること。
これってとても大事なことなのですが、最近自分のコトバを持たなくなった人がとっても増えてきたように思うのです。</description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/01/post_547.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長 北村真也</category>
        
        
         <pubDate>Sat, 21 Jan 2012 20:29:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>医療連携</title>
         <description>水曜日に京都赤十字病院、心療内科部長の名越先生とお会いしました。先生は主に思春期の子どもたちの治療がご専門で、今後とも私たちと連携を持っていただくことをお願いに行ったわけです。

睡眠が不安定。他人の視線がとても気になる。いつも不安。すぐにおなかが痛くなる。
不登校の子どもたちの中には、こんなことを訴える子どもが少なくありません。
そんな時、状況に応じて私たちは医療連携をおこなう場合があります。
時には薬の力を借りることで、状況をもう少し穏やかなものにした上で本人が課題を克服していこうというものです。

だからアウラでは現在、複数の精神科、心療内科の先生方と連携を行っています。医療機関だけではありません。保健所を窓口に福祉機関とも連携を取りながら、チームで不登校の子ども、そしてその家族を支援しています。</description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/01/post_546.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長 北村真也</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 20 Jan 2012 17:59:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>枠組みの大事さ</title>
         <description>好き放題の生活の中で育った子どもは、いつまでたってもフラフラします。自分自身の軸がないので、他人の話に翻弄されたり、すぐにパニックになったりしてしまいます。
だから私は、制約のある枠組みの中で育つことはとても大事なことだと思っています。

ある意味、不自由な状態は子どもの強さを育てるにはとても有効です。ただその不自由さに子どもが同意してないといけません。同意がないと、そこには反発だけが残ってしまうからです。

不登校の子どもたちの家庭が不安定な状況になってしまうことは、よくあることです。家が不安定だから子どもが不安定になるのか、子どもが不安定だから家が不安定になるのか、それはわかりません。ただ確かなことは、それらが互いに連動してしまうということです。

だからアウラでは、枠組みを大事にしています。アウラが居場所としての形態をとるのではなく、一つの学び場としての形態をとるのはそのためです。ここでは子どもたちは、学習という活動を通して互いにつがリあっているのであって、ただ何となく集まっているわけではないのです。そこは一つの共同体なのです。

共同体は、ある意図を持った集団です。そしてそれぞれのメンバーがその意図を尊重することで成立していく集団です。だからそこには、ルールがあり、枠組みがあるのです。つまり自分がその共同体に所属していくためには、その枠組みを受け入れる必要があるわけです。それがいやなら、その共同体から出て行くという選択をすればいいだけです。

ただアウラでは、共同体としての枠組みが尊重されると同時に、学習者個人も尊重されます。それぞれに事情を抱えた子どもたちですから、彼らに対する配慮もなされます。だからアウラは、集団の枠組みと個人の状況との間で常にバランスを取って成立している場だとも言えるのかも知れません。私は、これを「汽水領域」と呼んでいます。

汽水領域の中では、絶えずその枠組みが更新されていきます。実際、アウラにおいてもそこに参加する子どもの状況でその枠組みを更新させています。だから、ある意味で不安定さを内在化させています。ここが、学校ともただの居場所とも違うところです。枠組みを大事にしながら、その枠組みそのものを絶えず更新させていく。それがアウラの組織論でもあるのです。</description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/01/post_545.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長 北村真也</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 18 Jan 2012 14:28:27 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>不安はマイナスの期待？</title>
         <description>子どものこれからのことについて不安を抱かれる親は多いと思います。

子どもが学校へ行かなくなると、
「高校へ行けなくなるのではないか」
「ひきこもりになるんではないか」
「仕事につけなくなるのではないか」
「結婚できなくなるのではないか」
親の不安は、どんどん膨らんでいきます。

そう、不安は常に新しい不安を作り出していくものです。不安は、自分自身の作り出す世界です。創造性の産物なんです。だからいくらでも作り出すことができるわけです。

不安を抱きやすい人は、次第に視野が狭くなります。視野を狭くするほうが、不安を作りやすくなるからです。だからどんどん不安が膨らみ、どんどん視野が狭くなるというマイナスの循環が生まれることになります。これがひどくなると、鬱になるわけです。

ただ今回は、不安を抱く親のことを考えるのではなく、その不安を目の前の子どもがどんな風に受け止めるかを考えてみたいと思うんです。

不安はマイナスの期待だと私は思っています。親の頭の中には、どうしようもなくなっていく子どもの将来へのイメージがあるからです。つまり子どもへの不安は、暗にマイナスのイメージを示すことになるわけです。生活を共にする家族ですから、口に出さなくても伝わってしまいます。

だから親は、その不安がもたらす影響について自覚的になるべきだと私は思っています。実際、これからのことはどうなるかわかりません。それは不登校の子どもだけじゃありません。普通に学校へと通う子どもだって同じことです。同じどうなるかわからないのであれば、プラスの期待を持って、希望を持って生きたほうが幸せだと私は思うのです。

どうなるかわからないことを引き受けられる。これもまた人間の大事な能力のように思うのですが、いかがでしょうか？</description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/01/post_544.html</link>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長 北村真也</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 17 Jan 2012 14:11:28 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>家族の恢復</title>
         <description><![CDATA[<img alt="P1030906.jpg" src="http://tiseikan.com/blog/images/P1030906.jpg" width="320" height="240" />

不登校やひきこもりの子どもたちが、次第に自信を取り戻し自分の道を歩き始めるようになると、同時にその家族が本来の機能を取り戻していくことがよくあります。

例えば…
今まで家族に無関心だったお父さんが、前面に出るようになった。
夫婦の話し合いが多くなった。
みんなで夕食を食べるようになった。
家族で久しぶりに出かけるようになった。
おじいさんとおばあさんの仲が良くなった。
これらは、数え上げればきりがありません。でもみんな当たり前のようなことなんですが、その当たり前の行動の中に家族の大事な機能が隠されているように思うのです。

アウラは不登校の子どもたちにとっては、学びの場所であると同時に生活の場所でもあります。実はここが普通の塾と違うところです。だから生活の場としてのドラマが起こってきますし、もう一つの家族のような機能を持つことになります。そして子どもたちは、ここで新しい生活を体験し、これまでの生活を振り返るのです。

ここでは、子の振り返るという「省察性」がとても大事になってきます。新しい体験をして初めてその違いがわかり、課題が見えてくるからです。そして子どもたちは、そこに向き合うのです。すると彼ら自身に変化が生じ、その変化が今度は家族そのものに影響を与えるのです。

こんな風に考えると、不登校の子どもが家族の変容の重要なカギになっていることがわかります。子どもが学校へ行かなくなったことで、初めて失われつつあった家族の機能にみんな気が付き始めるように思うのです。]]></description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/01/post_543.html</link>
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         <pubDate>Mon, 16 Jan 2012 07:44:47 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>家族療法</title>
         <description>京都の家庭支援総合センターで開かれていた。
家族療法の研修に参加してきました。
講師の先生は、京都学園大学教授の川畑隆さん。
もう５年以上お付き合いをさせてもらっています。

ある特定の家族のケースについて家族療法の観点から見立てを行い、それを全体でシェアーをしていくという内容でしたが、川畑先生の軽快なトークのおかげでで実にわかりやすいものとなったように思いました。私にとっては、随分久しぶりの家族療法のワークショップで、そこで使われているキーワード、例えば、バウンダリー、フレーム、パワー・・・、なんていうキーワードにどこか懐かしさを覚えました。

私は今から２０年以上前、家族療法をかなり真剣に学んだ時期がありました。当時は、立命館大学大学院教授の団士郎さんや同志社大学教授の早樫一男さんたちがまだ児相におられた頃で、一生懸命になってS.ミニューチンの提唱する家族療法を普及させておられました。そして当時まだ３０歳前だった私は彼らの主催するワークショップによく参加させてもらっていたのです。

家族療法では、家族の機能をとても重視します。
その機能が十分発揮されない家族の構造を見抜き、その機能を回復させるように支援を行っていきます。

例えば、家族の中のバウンダリー、これは境界のことですが、ここでは世代間の境界を指しています。健全な家族においては、おじいちゃんとおばあちゃん、お父さんとお母さん、そして子どもたちと、その世代間にはっきりした境界があり、それぞれのメンバーはその世代の中で連合関係を構築するものと考えられているのです。

もう少しわかりやすく説明してみましょう。
例えば、お父さんが自分の母親から自立していないという例を考えてみましょう。お父さんは、困ったことがあるとお母さんではなく自分の母親に相談します。もちろん、そんな夫婦関係がうまくいくはずがありません。お母さんはその不満を自分の子どもを巻き込むことで処理しようとします。ここに今度は母親と子どもとの癒着が始まるのです。こうして家族内のバウンダリーがうまく形成されないと、家族の機能が低下することになるのです。

こんな風に家族療法では、その問題を個人に帰結しません。その問題を家族の構造やその機能のあり方に見出そうとするのです。そこが実に新鮮だったわけです。そして今日久しぶりに家族療法の原理を学び、改めてその考え方の素晴らしさを実感した次第です。</description>
         <link>http://tiseikan.com/blog/2012/01/post_542.html</link>
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         <pubDate>Fri, 13 Jan 2012 19:32:23 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>朝、起きられない</title>
         <description><![CDATA[<img alt="P1030895.jpg" src="http://tiseikan.com/blog/images/P1030895.jpg" width="320" height="240" />

学校へ行かない子どもたちの生活が夜型になるのは、よくある話です。その理由は簡単です。

昼間にはほとんど何もすることがないか、あるいは昼間に何もしないでいると誰かに何か言われたりする可能性があるからです。だから昼間の間は、ずーっと寝ていて夕方ころから行動を開始します。そして夕食をとり、あとはゲームをするかテレビを見るかもしくはパソコンするかです。最近では、テレビの番組や映画なんかもyoutubeで見られるようになりましたからね。そして朝方まで、自分の部屋でゴソゴソと活動してからベッドに入るといった感じになるわけです。

でも彼らの話によく耳を傾けてみると、彼らは決してそんな生活に満足しているわけではないことがわります。仕方なくそんな生活を選択しているのあって、それに代わる選択肢が見出せない、あるいは見出せたとしてもそれを実行できないでいるように思うのです。

生活は、毎日毎日繰り返されていきます。日々のパターンは習慣となり、そのパターンがやがて身体に刻み込まれていきます。身体が夜型の生活に順応できるように学習してしまうからです。そうなると、そこから抜け出すことが少し困難になっていきます。

学校へ行かない子どもが、やがて再び学校へと戻っていくようになる時、そこには大きく3つの要素が必要となります。

第一に心理的安定です。これには子どもたちが今の自分自身に対してある程度の自信を取り戻す必要があります。自分を受け入れ、自分に自信を持つことで、社会に対する信頼が構築できます。

第二に生活リズムの安定です。夜型から昼型へと移行できないと、なかなか学校生活への適応は難しいです。

そして第三に学力問題があります。いくら心理的に安定しても、いくら生活が改善しても、学力がそれに伴っていかないと、次の学校生活に適応するのは難しいものです。

知誠館の子どもたちは、多かれ少なかれこのような3つの課題を克服して、次の進路をみんな切り開いてくれます。もちろん個人差はあります。でも必ず道が開かれていくことを私たちは信じて疑いません。]]></description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">塾長 北村真也</category>
        
        
         <pubDate>Thu, 12 Jan 2012 10:35:53 +0900</pubDate>
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