2010.08.08
社会臨床的視点
私の中に社会臨床的視点がもともと備わっていたことを、中村先生から指摘された。私の理解する社会臨床的視点とは、複数のパースペクティブである現象を捉えること。複数のフレームを通してある現象を解析すること。正解と言われていることをもう一度問い直していくといった省察的思考を持ってある現象を観察すること。ある現象を固定的なものとして捉えるのではなく、文脈性の中で、時間軸の中で、関係性の中で、常に動きとして捉えること。そんな表現が思い浮かんでくる。
思い返せば、私自身は何度も何度も「学びとは何か」ということを自分自身に問うてきた。高校1年の時、私の隣の席の友人が机の中の教科書をカンニングしていて、それが発覚し連れ去られていった時、その前日まで必死で意味もなく暗記したことを答案用紙に書いていた私の行動の意味が見えなくなっていった。机の中にしまった教科書を答案に写す行為と暗記したことを答案に写す行為のいったいどこが違うというのか? 当時の私はその答えを出すことができなかったのだ。それから私は、長い旅に出た。30年以上、私はただひたすら〈学ぶ〉ということにこだわり続けた。それは何度も何度も「学びとは何か」をパラフレーズすることであり、何度も何度もその定義を編集することであった。
そして私は、私塾を始めた。大学4年の冬、22歳のときである。私は、教師になり、経営者になり、そして〈学び〉を考える学習者になった。さらに時代の変化の中で、私は〈学び〉そのものの定義を更新し続けた。私たちの社会がポストモダン的特徴を色濃くし始めた90年代、私は、どこか抜本的な学びの定義の更新の必要性を予感し、アウラの構想が始まった。35歳のときである。そして、21世紀の幕開けと同時に、アウラを舞台に私の挑戦が再び始まっていくのである。それから10年、私は今、大学に再び籍を置きながら、さらに「学びとは何か」を問い始めている。
こうして思い返して見ると、やはりこれは終わりのない作業なのかもしれない。様々な人の考えを吸収しながら、様々な他人の視点に立ちながら、何層にも何層にもその答えを重ねていく作業を、私は今も続けているのかもしれない。中村先生は、私のそんな側面を見て、私自身の中に社会臨床的な視点を見い出していたのかもしれない。
コメント