2010.07.30

死生観

今日は、K先生が休みということで私が代りに3年のゼミを担当しました。生徒たちは、昨年私が担当していたこともあり、教室に入るなり「塾長、今日は語ってください。お願いします」と声をかけられました。

「もうみなさんは、クラブが終わりましたか?」
「はい」
「どうでした、最後の日は? 泣きましたか?
「もうポッカリ、心に穴が開いたみたいで…」
「“心に穴が開いた”って、いい表現ですよね。喪失感、何か自分にとって大きな価値のあるもの、とっても大事なものが失われていく感覚。誰か親しい人の死、大事に飼っていたペットの死。喪失感っていうのは、そんな死ということとも関係があるかもしれんね。じゃあ、今日はそんなところから少し話すことにしようかな」
「やったー」

私はホワイトボードに大きく〈死生観〉というコトバを書きました。
「さっき、Tちゃんが言ってた感覚“心に穴があいたような”っていう感じ、〈喪失感〉、それってとても大事な感覚だと思うんや。“やってもやってもどうにもならない感覚”、“自分の限界を感じさせられた時の感覚”、〈挫折感〉、これも大事。これらは、すごいネガティブなコトバなんだけど、ネガティブなコトバがわからないと、ポジティブなコトバがわからない。そのことを象徴的にあらわしたのがこの〈死生観〉
というコトバだと思う」
少しずつ、私は自分の語りのモードに入っていきます。話がその本質の入り口に入ろうとしている時、私は決まって生徒たちの反応を観察しています。十分な反応がないと、一緒にその本質に入れないからです。今日は十分です。

「〈死生観〉というコトバ、〈死〉は究極のネガティブで〈生〉は究極のポジティブ、これを反対のものと捉えることもできるかもしれないが、実はこれらはとっても連動している。それは、〈死〉に直面し、受け止め、少しずつ理解していくことで初めて、〈生〉がわかってくる。そうや、キミらの中に“生きてる”って感覚がわかる人がいる?」
「……」
「もちろん、みんな生きている。私だって生きている。でも“生きている実感”って何かわからない。わからなくなってしまっている。それは、私たちの社会が〈死〉というものを、私たちの現実の生活の外のどこかへ追いやってしまったからだと思うんや。いつの時代からか、〈死〉の生々しさは消え去って、どこか美しいものになってしまったのかもしれない」
生徒たちは、真剣な表情で私の話を聞いてくれています。

「私が小学校5年の時、飼っていたボブっていう犬が、車にはねられて死んだ。近所の子が、はねられたことを教えてくれて、私は飛んで行ったんや。そうしたら、道の真ん中にボブが荒い呼吸と一緒に、真っ赤な血を口から吐いて倒れていた。私は、泣きながらそんなボブを抱きかかえるようにして家に連れて帰った。でも、私はボブの死ぬ瞬間に立ち会うのが怖かった。なぜだか分らないが、私は死ぬ瞬間が怖かった。今まで、動いていたものが急に動かなくなる瞬間、今まで話していたものが急に話さなくなる瞬間、それを見るのが怖かったのかもしれない。いや、今でも死ぬ瞬間は私にとって怖いものかもしれない…。キミたちは、誰かの死ぬ瞬間に立ち会ったことある?」
「おじいちゃんのお葬式ならあるけど、死ぬ瞬間はない…」
「今はたいていの場合、人は病院で死を迎えるので死の臨場感が薄いのかもしれない。ほんの一昔前までは、死を迎えることはやはり苦しいもので、そう言えば、私の親戚の叔母さんなんかも、もうずいぶん前のことだけど胃がんで、口から何度も血を吐いて苦しんで亡くなった。だからこそ、死んだら安らかな眠りになる。苦しみから解放されるんや」
「なるほど」
「だから昔は、〈死〉ということがもっと身近だったし、それに生々しかった。例えば、前にアウラで教えてくれていたK先生、彼女の家は農家だったので、彼女のおじいちゃんの時代なんかは、大事なお客さんが来ると、飼っていた鶏を潰してふるまったそうなんや。首を切って血抜きをして…」
「えーっ」
「そうやで、そんなことが普通の生活の一コマとしてあった。でも今は、鶏はきれいにパックされてスーパーに並べてあるだけ。そこには〈死〉の生々しさがない。みんな知ってる? 今、お葬式ってジャスコで売ってるの…」
「そうなん?」
「そうやで、そうなんや。今は人の〈死〉も消費の対象になってしまう時代なんや。こんな社会のことを〈消費社会〉って言うんや。私たちが生きている、まさにこの社会。より便利に、より楽に、より快適に…、そんなメッセージとともに、ありとあらゆるものが消費の対象になって、ネガティブなものが失われていく社会。さっきのコトバ〈死生観〉でいうと、〈死〉の領域が、どんどん消費にとって代わってしまう。だから、ポジティブなものがわからなくなっていく。〈生〉の領域が見えなくなっていくんや。このことをボードリヤールという人は、『消費社会の神話と構造』という本の中で訴えている。大事なことは、私たちの生きている社会が、ネガティブなものを隠せば隠すほど、それは歪んだ形で世の中に出てくるということなんや。昨日もニュースでやっていたけど、父親が中学生の息子の背中にライターのオイルをかけて火を付けた虐待。こんなの毎日あるやろ?」
「あったあった」
「これを〈社会病理〉って言うんや。今の時代は、ネガティブなものとポジティブなものとの違いが、よくわからなくなってしまっている。だから、さっき言ったような病理的なことが、私たちの身近なところで、日常の世界の中で起こってしまう。そんなことを研究する学問を、〈社会病理学〉って呼んでいる」
「ふーん、そうなんや」
「なかなか、面白いやろ? だから、しんどいこと、つらいこと、いやなこと、絶望すること、寂しさを味わうこと、挫折感を持つこと…、キミたちがそんなネガティブなことを経験することは、大変大きな意味があるんや。受験期には、受験の痛みを味わった方がいい、受験の不安を感じた方がいい。それが大事。“気がついたら高校生”って、そんなのが一番ダメだと思う。あっ、そうそう、キミらはバンジージャンプ知ってるやろ。あれって、アフリカのある部族の成人の儀式やったんや。足首に植物のつるをまいて、高いところから飛び降りる。ところが、時々事故が起こる。すると若者は死んでしまうんや。だから、それは命をかけた儀式やった。だからこそ、その儀式を乗り越えた若者は大人になれたわけなんや。これを〈通過儀礼〉initiationっていうんや。このバンジージャンプに挑戦する前は、それこそとてつもなく大きな恐怖や不安に打ち勝たないといけない。そのために彼らは、酒を飲み、一晩中踊り狂い、ある種の特殊な意識状態に自分自身を置くことでそれを乗り越えていく。そしてジャンプが成功したあかつきには、彼らは周りから祝福され、大人としての再出発をはたす。つまりそこにも、死と再生のテーマがあるわけなんや。ところが、近代社会は、そのネガティブな部分を野蛮だ、危険だという理由で消し去った。だから成人式は、形骸化したんや。毎年ニュースでやってるやろ。酒飲んで暴れる若者たち。形骸化した通過儀礼は、その本質を失ったわけなんや」
「こんなことも大学で勉強できるんですか?」
「そう、これは文化人類学になるかもしれんなあ。大学では、キミたちが興味があることは、何でも勉強できるで」
「へえー、そうんなや」
「そうです。だから私はキミたちに大学に行ってほしいと思っている。ただその前に高校があって、その前に受験がある。私はキミたちが受験生として、苦しむべきことは苦しんでほしいと思う。死と再生を味わってほしいと思う。T子ちゃんが最初に言ってくれたように、どこか心に大きな穴が開いたと感じるくらい勉強をやりきってほしいと思ってるんや」


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