2010.05.28
塾長がこわい?
私のことを「こわい」という生徒は、案外たくさんいるのかもしれません。別に普段から叱りつけているわけでもなく、威圧的な態度で接しているのではないのですが、私には彼らに「こわい」と感じさせてしまう瞬間があるようです。
私は、中1のKちゃんと向き合っていました。その日は、一度学習した単元をしっかり習得できているかのチェックをスタッフにしてもらい。その直しをしているKちゃんのそばに私は座って、彼女と話をしていました。
「どうやった?できたの?」
「全然…」
「これみんな、ゼミでも学習してきた内容やろ。ゼミの時は、みんなできていたやん」
「時間がたつと、忘れてしまう」
「それは、困ったなあ。やってもやっても、次から次へと忘れていく、それじゃ、結局何にも残らないやん。結果的に何にもやってないのと同じになってしまう。このことをKちゃんは、何とかしないとあかんのと違う?」
「そうだけど、忘れるもんは、忘れるんやもん…」
「栓をしてないお風呂に、お湯をはっている時のように、このままじゃ、いつまでたってもお湯がたまらん。やりっぱなしの状態や。始末が悪い。どうすればいいと思う?」
「さあ…、わからん」
ここまで話して、私はKちゃんが自分の置かれている現状に、しっかり向き合おうとしていないこと。嫌なことには向き合いたくない、できれば見ないでおきたいという思いを持っていることを感じていました。学習以前の、彼女の行動パターンがそこに見えてきます。この部分について、私はさらに突っ込んで話をします。
「ひょっとすると始末が悪いのは、勉強だけじゃないかもしれない。私はKちゃんのプライベートを知らないけど、私生活でも始末が悪い、いい加減なのかもしれないと思う。例えば、出したものをしまわないとか、自分の部屋を片づけられないとか、人間関係でも最初は調子がいいが一旦トラブルになるといい加減な対応をしてしまうとか…」
Kちゃんは、少し涙目になっていました。
「塾長、こわいわ」
「だって見えてしまうもん。Kちゃんが勉強しているところから、いろんなものまで見えてしまう…」
私はよくこんな風に、タイミングを見計らって私の見えている世界を生徒たちに直接伝えるということをします。私の中では、学習という活動を通して、彼らが自分自身に向き合っていくことを期待するからです。そしてそれは、私自身が当事者として彼らに直接かかわっているからできることかもしれません。
「Kちゃんは、まず、今の状態に自覚的になるべきや。このままであと1年過ごして3年生になれば、かなり大変になる。“何とかしないとやばい”という気持ちを持ってほしい。それと一旦理解したものを忘れないようにするためには、復習しかない。説明を聞いても、わかったような気になってしまうだけで、本当はわかってないかもしれない。それを確実にするためには、自分でもう一度考えてみるか、あるいはもう一度やって見るしかない。Kちゃん、アウラにもう1日来たらどう?」
「えーっ…」
「それがいややったら、自分でやるしかない。家でやるしかない。別にアウラで学ばなくてもいい。ただ、このまま放置したら、Kちゃんは、同じパターンを繰り返すだけ。とにかくきちっと始末できるように、何か新しい行動が必要なんだ。そこのところをKちゃん自身が考えないといかん」
「はい…」
アウラでの私の大きな役割は、このように生徒一人一人と向き合うことかもしれません。生徒と向き合うためには、その生徒がよく見えていないといけません。そう言った意味では、アウラは生徒がよく見える環境なのかもしれません。学校と違って、アウラは一斉授業をそのベースにおいていません。自律的に自学自習をおこなうことがアウラ流なのです。このような環境の中においては、その生徒本来の学習スタイルが表現されていきます。そして、この学習スタイルの中に、その生徒の行動の癖(パターン)が見え隠れするのです。私は、まずこの癖を見つめます。そしてこの癖が、その生徒が抱えている学習上の課題に反映されているのです。さらにこの癖は、生徒の家族関係や友達関係などの関係性の中から形成されてきたものですから、そこからその関係性そのものを見つめていくこともできるわけです。このように私は、生徒の学習を入り口にして、生徒の関わる世界全体を見ているのかもしれません。
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